評・大倉康伸(編集委員)/日本農業新聞2009年9月21日(月)

飢餓の解消に挑んだ一生

 世界中の飢えた人たちに食料を与える―。この命題に農業技術で応えたのがノーマン・ボーローグ博士だ。1940年代から小麦増産の研究に取り組み、70年に農業分野では初めてのノーベル平和賞を受賞。「奇跡の小麦」はメキシコのほか、インド、パキスタンの食料危機を救ったと評価され、研究方法はトウモロコシ、稲の研究に応用され、「緑の革命」となった。本著は、2006年に米国で出版された伝記で、今回、親交のあった岩永氏の手により監訳された。

 品種改良はメキシコの研究機関で取り組み、さび病に強い、茎が短く、茎数が多い、倒伏せず肥料の大量投入ができる品種を重視し、この成功で収穫量は2、3倍に増えた。

 博士は、夜明けから日暮まで暑さもほこりも風も雨も関係なく試験場にいた。同僚は「天才とは無限に努力する才能だとすれば、博士はそれをもっていた」と評する。こうした、ひたむきな姿勢はどうして生まれたのだろうか。

 祖先はノルウェーからの移民。故郷のアイオワ州で苦学して高校を卒業し、ミネソタ大学の入試に落ちた経験もある。こうした経験が、飢餓に苦しむ世界に情熱を注ぐことになったのではないかと想像させる。丹念な取材でルーツを明らかにし、さらに研究者の育成に貢献したことも見逃してはいない。

 一部に批判もあるが、「緑の革命」は20世紀最大の農学の成果である。だが、研究予算は削減され、研究者の国際的連携も崩れかけている。今後の課題だろう。

 残念ながら博士は、がんによる合併症で13日(日本時間)に亡くなった。口癖は「ネバーギブアップ」。飢餓が続く限り博士の遺志を継ぐことが必要だ。

評・最相 葉月(ノンフィクションライター)/日経新聞2009年11月8日(日)

 先頃、95歳で世を去った農学者ノーマン・ボーローグの伝記である。高収量で病気に強い米や小麦、トウモロコシなどの「奇跡の品種」を開発し、数億人を飢餓から救った「緑の革命」で1970年ノーベル平和賞受賞。妻に受賞を知らされたとき「きっときみは誰かにかつがれたのさ」と言い、泥だらけで農場に戻っていったという。研究は実地で「ブーツとシャツを汚して」すべきというボーローグ哲学を象徴する逸話だ。

 アイオワ州のノルウェー系米国人の共同体で育った。飢餓に関心をもつきっかけは、29年の世界恐慌である。食糧難が人を変えることを知ったボーローグは植物病理学を学び、ロックフェラー財団が組織した科学者チームに参加。人口増加の一方で食料生産が伸びないメキシコの支援に取り組んだ。

 60年代のアジアで「緑の革命」を起こす3次にわたる改良は、このメキシコでの成功が土台にある。1次は病気に強い品種を絞りこむための「大量交配」、2次は品種改良の時間を短縮する「シャトル育種」、3次は短く強い茎をもつ「矮小型メキシコ小麦」の育成である。これによってメキシコは小麦の自給を達成。プロジェクトはインドやパキスタンへ広がり、食料危機は回避された。ボーローグは人材育成を重視し、彼らが自国で活躍する姿を最高の喜びと感じていたという。

 注目すべき後年、遺伝子組み換えなどのバイオ技術を評価した点だ。環境ロビイストからの批判には「発展途上国の悲惨な状況の中で、一ヶ月でも生活してみればいい」と反論。パキスタンでの活動を当時外交官として支援した著者の記述も一貫してボーローグに寄り添い、功績を称えている。

 そのためか、インドの思想家ヴァンダナ・シヴァによる「緑の革命」=グローバリズム批判への言及がないのは残念だ。ハイブリッド種子や化学肥料を用いる手法は大型資本による種苗や農地の独占を招き、地域が対立、農村の自給率が低下したという現状報告は晩年のボーローグを打ちのめしたはずだ。だが回答のないまま本書は遺言となり、解決は未来に託された。

岩手日報 2009年10月1日(木)

「緑の革命」日本と深い縁

 米国の大リーグ、マリナーズのイチロー外野手が9年連続200安打を達成した9月13日の前日、同じテキサス州で「緑の革命の父」とも呼ばれたノーマン・ボーローグ博士が亡くなった。95歳。日本とも深い縁がある農学者だった。

 その接点は、岩手県農事試験場の主任技師、稲塚権次郎氏が1935年に完成した「小麦農林10号」だ。終戦後、この種子は連合国軍総司令部(GHQ)を通じて米国に持ち込まれ「ノーリン・テン」と呼ばれた。当時、メキシコでの小麦の改良を研究していたボーローグ博士は、背丈が低くて収量が多い農林10号系統に着目。在来種と交配して、新品種を開発した。

 これによって、メキシコは飢餓の危機を脱し、さらにその種子がインドやパキスタンなどに持ち込まれ、小麦の大増産に成功した。この経緯は、彼の伝記「ザ・マン・フー・フェド・ザ・ワールド」に詳しい。

 「緑の革命」に対しては、化学肥料の投入増大や種子ビジネスの台頭などの批判もあるが、億単位の人びとを飢えから救ったのは間違いない。この功績でボーローグ博士は、70年にノーベル平和賞を受賞した。彼はこれを個人の栄誉と受け止めず、90年に故・稲塚氏の生家がある富山県南砺市を訪れた際に、記念講演をして稲塚氏の功績をたたえた。

 日本では、イチロー選手の快挙の陰に隠れてしまったが、米国では主要紙のほとんどがボーローグ博士の死去を大きく伝えた。日本人が彼の功績に無関心でいられるのは、日本が飢餓を忘れた飽食国家になってしまったからだろうか。偶然だが、前述の伝記の翻訳版『ノーマン・ボーローグ』(岩永勝監訳、悠書館)が彼の死の直前、9月11日に完成し、出版された。(勇)

農業協同組合新聞 2010年1月19日(火)

飢餓撲滅のため戦った男、ノーマン・ボーローグ博士の壮大な物語

本書のタイトルは、The Man Who Fed the World、ずばり世界を飢餓から救った男である。

 米国オハイオ州の平凡な農村少年が農学者として初めてノーベル賞(1970年)を受賞するまで、更にその後、栄光に埋もれることなく不屈の精神をもって全世界をかけめぐり人類の飢餓撲滅のため戦った男、ノーマン・ボーローグ博士の壮大な物語である。

 著者はレオン・ヘッサー。1960年代からのボーローグの友人でパキスタンにおいて同国の飢餓状態を改善するため博士とともに「高収量型小麦」の栽培の指導に当たった。その後、インドでも協力、小麦革命を起こした。

 さらに本書の監訳を担当した岩永勝博士は(独法)農業・食品産業技術総合研究機構作物研究所長の要職にある。大学農学部に入学した年にボーローグのノーベル平和賞受賞に大いに啓発され、同じ品種改良の途を歩む。米国の国際トウモロコシ、小麦改良センターの所長として2002年より6年間在職。

 このCIMMYTの所長相談役にあった博士と家族ぐるみのつきあいが始まり、ボーローグの家族愛、特に奥さんのマーガレットとの夫婦愛を身近に知る。日常生活を通してボーローグの人類を食料危機から救おうとする不屈の精神を見る。巻末の監訳者のあとがきを必読されたい。

 ボーローグは大学で博士号を取得した後、しばらくデュポン杜で働いたが1940年代、ロックフェラー財団ステークマン博士の強力な推薦で、メキシコ食料危機対策に取り組む。

 ここで画期的な小麦育種プログラムを作る。遺伝学、品種改良、植物病理学。昆虫学、土壌学、農業経済学、穀物技術の広い領域で「高収量小麦」の改良に取り組み、見事に成功し、全世界にノーマン・ボーローグの名は知れ渡った。

 徹底した現場主義。ボーローグはメキシコを初めアジア、パキスタン、インド、アフリカと世界の大陸で活動したが、朝から日没まで圃揚で研究し続けた。

若い研究者が研究室に閉じこもると大声を発して圃場での研究を指導したと言う。それぞれの国で土壌、天侯、植生、動物と対話しながら研究を続けた。

 この真摯な態度が有為な研究者を世界中で生み出したと言える。

 ボーローグは大変な親日家であった。日本との係わり合いを少し紹介しよう。

 先ず、緑の革命の主役になった高収量小麦、品種育成に日本の小麦品種「農林10号」を使い、これが成功の大きなきっかけとなった(岩永氏)ということである。日本人として誇りに思う。

 博士が引退を考えていた折、アフリカの食料危機がきわめて深刻な状態になった。この時、日本財団(日本船舶振興会)の笹川良一氏がボーローグに会い、「共に力を合わせてアフリカの飢餓撲滅対策に取り組もう」と申し入れた。

 ボーローグは高齢を理由に固辞したが、笹川氏はあきらめなかった。再度の会談で先生より私の方が13歳年上ですと説得し、「笹川グローバル2000」が始まる。博士の老いの熱情にうたれ、各国の農業普及機関が協力し、米国からジミー・カーター元大統領が運動に参画した。ボーローグ博士は本年9月に永眠したが世界中からその貢献を讃える声が澎湃として沸き起こった。むべなるかなである。人類はかけがえのない財産を失った。