コラム「アメリカ史の窓」

第17回 植民地時代の女性の地位

 いくつかの例外を除けば、アメリカの女性が参政権を獲得したのは実は第一次世界大戦後である。それは女性の地位向上の道程が非常に長かったことを示している。確かに植民地時代の女性の地位は低かった。例えばジョージ・ワシントンの親戚の女性は次のように書いている。
「男性は決して間違った意見を持つことはありません。だから女性の意見に従う必要はないのです。[中略]。私は、自分の意見を撤回して夫の意見に従うことを恥ずかしいことだとはまったく思いません。[中略]。私は自分の義務を果たしたいと思うだけです。[妻は夫に従うべきだという]聖書の教えに従うことこそ結婚生活で私が守るべき行動原理なのです」
 植民時代において女性は夫から保護される対象であった。既婚女性にはほとんど法的権利がなかったからだ。多くの場合、既婚女性は自分で契約を交わすこともできず、訴訟を起こすこともできず、証書を作ることもできない。
 ただ近年の研究では、植民地時代の女性に対する見方が変化している。確かに女性は男性と同じ権利を与えられず、限られた職業しか選択できなかった。ただ家庭を切り盛りするうえで女性は男性と変わらない役割を担っていたようだ。十八世紀初頭のヴァージニアの女性に関して次のような記録がある。
「彼女は非常に洗練された女性であり、馬車の中では粗野で下品な様子は微塵もなかったが、実は銃を持って森の中に自ら分け入って鹿や七面鳥、時には野牛さえ撃ち殺す。豚を捕まえて繋ぎ、斧で蜜蜂の巣を叩き落とし、大部分の男たちと同じように行動する」
 植民地時代の女性の地位を語るうえで最も注目すべき人物はサラ・オズボーン(セイレムの魔女裁判の犠牲になったサラ・オズボーンとは別の人物)である。夫が事業に失敗したためにサラは一家の大黒柱として働いていた。さらにサラは、ロード・アイランド植民地ニューポートで起きた信仰復興運動を主導した。
 サラの行動に眉を顰める男性も多く、牧師のような真似は止めるべきだと糾弾した。それに対してサラは、「口と扉を閉ざして世間に知られずにひっそりと暮らせというのですか」と反論する。さらにサラが遺した日記を読むと、他の人に自分ことを決めさせないという強い意思が示されている。どのような時代にもサラ・オズボーンのような先駆者はいるものだ。