コラム「アメリカ史の窓」

第4回 ワシントンの入れ歯から見るオーラル・ケア

 ワシントンは22歳から歯を失い始めている。日記の中でワシントンは、歯のトラブルについて頻繁に書いている。おそらく歯周病か、または固い木の実を歯で割る習慣があったために歯を失ったと考えられる。後年、ワシントンの食事の様子を見ていたある者は、「デザートで彼は非常に多くの量の木の実を食べた。会話を楽しんでいる間、彼は数時間、木の実を食べ続けた」と記している。それだけ歯を酷使すれば欠けるのは当然だろう。
 ただこのような歯の事情は、ワシントンだけが特別であったわけではない。この当時の人々は、40代か50代になるまでにほぼすべての歯を失うことも珍しくなかった。
 最大の原因は甘い物である。当初、砂糖は贅沢品であったが、次第に一般に流通するようになった。さらにアメリカは、砂糖の生産地である西インド諸島との交易が盛んであったために、砂糖の入手が比較的容易であった。18世紀のイギリスの地理学者のアイザック・ウェルドは、早くからアメリカ人が歯を失ってしまう原因を「不適切な砂糖菓子の摂取」だと指摘している。アメリカ人の砂糖の消費量は、一世帯当たり年間で8ポンド(約3.6kg)から10ポンド(約4.5kg)に達したという。現代と比べると非常に少ないが、江戸時代の日本人の消費量と比べると桁違いに多い。
 アメリカ人は砂糖だけではなく糖蜜や蜂蜜も使って食卓に並ぶあらゆる食べ物を甘くした。牛乳、パン、肉と甘くされずに済む食品が珍しかったくらいである。もちろんクッキー、カスタード、タルト、パイなどお菓子にも甘味料は使用されている。砂糖漬けにしたレモンの皮は子供達のおやつであった。
 それだけ甘い物を食べていれば虫歯になるのは当然である。ではどのようにオーラル・ケアをしていたのか。歯磨き粉は当時からあった。その成分は、骨粉、軽石、コウイカ、赤珊瑚、塩、胡粉を砂糖や蜂蜜で甘くしたものである。
 歯磨き粉を使うためには歯ブラシもなければならない。薬種商に行けば歯ブラシを入手できる。中には、自分で歯ブラシを作る者もいた。棒にリネンの粗布を巻いたり、木の根っこの端を解して繊維状にして使ったりしたらしい。ただ大部分の人々は食後に指やナイフで歯を掃除していたようだ。
 マウスウォッシュのような物もあった。成分はワインに蜂蜜、ミント、シナモン、クローヴである。
 こうしたオーラル・ケア用品を使っても虫歯予防の効果があったとは考え難い。ワシントンは、歯医者から指導を受けてロンドンからわざわざ歯ブラシを取り寄せているが、「歯の痛みが悪化し、歯茎が炎症を起こして腫れている」と日記に記している。歯の痛みを抑えるために軟膏やアヘンを含んだ粉薬を注文していた。
 友人が受けた歯の移植がうまくいったと聞いたワシントンは自分もそうしようと考えた。実際にワシントンは9枚の歯を奴隷から買い上げている。1枚の価格は13シリング(8,000円相当)であったという。現代の我々からすれば、人間の歯を買うという話は奇異なことに思えるが、昔はごく一般に行われていたことであった。また死体から歯を抜き取ることも珍しくなかった。
 大統領就任時にはワシントンの歯は、下顎の左臼前歯を除いてすべて失われていた。そのことからどうやら歯の移植は失敗したようである。最後に残ったその1本の歯も入れ歯を支えるために用いられ、過度の負荷が原因で抜け落ちた。
 ワシントンの入れ歯は幾つか現存しているが、その材質は基礎の部分が鉛、歯茎が封蝋、そして、歯の部分が牛の骨、カバの牙、象牙、人間の歯などである。決して快適ではなかっただろう。