コラム「アメリカ史の窓」

第10回 アメリカ人の飲酒癖

 植民地時代のアメリカではお酒と言えば、ラム酒のことだった。当時の記録によれば、「男達はラム酒を妻や子供よりも大事にしているようで、ラム酒を買って自分の口に入れるために、しばしば家族の口からパンを取り上げて売ってしまう」とある。18世紀半ばにフィラデルフィアを訪れた旅人の日記には以下のように記されている。

「昼食では林檎酒とパンチ、夕食前にラム酒とブランデー、夕食ではパンチ、マデイラ・ワイン、ポート・ワイン、シェリーが供せられ、就寝前に女性達とパンチ、リキュール、ワイン、蒸留酒を飲む。パンチを入れたボウルは鵞鳥が泳げるくらいに大きい」

 このように植民地時代のアメリカ人の酒量はかなりの量に達していた。アルコール大国である。食事の時はほぼ毎回飲んでいたし、冠婚葬祭をはじめとする儀式、集会、祝日、舞踏会、コンサートなどあらゆる機会にお酒が提供された。子供でさえ薄めたビール、ワイン、林檎酒などを飲んでいた。1人当たりのアルコール摂取量は年間3ガロン(約11リットル)に達していた。それはどのくらいの量なのか。世界保健機関の調査による現代の世界平均と比較すると、2倍から3倍近くに相当する。1日当たり缶ビールを2本から3本飲んでいる計算になる。
 では植民地の人々は何も対策をしなかったのか。フィラデルフィアの当局は居酒屋に1時間以上滞在してはならないという布告を出している。ボストンの役人は、過度の飲酒を戒めるために居酒屋に大酒飲みの一覧を貼り出して、その者達にアルコール類を与えないように主人に命じた。またもし居酒屋の主人が客に有り金全部を使って飲ませた場合は罰金を科された。
 しかし、そうした禁令はほとんど効果がなかった。なにしろ居酒屋の数は、教会の数よりもはるかに多かったので完全に規制できなかった。
 それにしてもなぜアメリカ人はそんなにたくさんお酒を飲んだのか。酒量が多くなる理由がある。まず公衆衛生の概念が発達していない時代では、清潔な水の確保は非常に難しい。そこでアルコール類を水代わりに飲んでいた。さらに当時の人々は、アルコール類が様々な病気に効果があると信じていた。むしろアルコール類を摂取しなければ、心身ともに不健康になるとまで考えていた。
 それに子供の時から飲酒が習慣化されていた。ある旅人は、「父親が1歳児を眠りから目覚めさせるとラム酒やブランデーを飲ませるのを私はしばしば見た」と記している。なぜそのようなことをするのか。親達は小さい頃からアルコールに親しませることで適量を覚え、大酒飲みにならずに済むと信じていたからだ。10代前半の少年が1人で居酒屋に行ってブランデーを1杯飲むという光景も珍しくなかった。居酒屋でお酒を飲むのは大人の男性の証だと考えられたので、親達からすればむしろ息子の成長が見れて喜ばしかったという。
 少女も少年と同じように飲酒していた。18世紀前半にボストンの学校に通うために下宿に入った8歳の女の子は、水ばかり飲まされてうんざりだと手紙で父親に訴えている。すると父親は、社会的地位にふさわしい飲み物、すなわちビールかワインを出してもらうようにしなさいと娘に返信した。