コラム「アメリカ史の窓」

第9回 天然痘の実態

 若い頃にワシントンも罹患した天然痘だが非常に恐ろしい疫病であった。しばしば都市で大流行して多くの住民の生命を奪っている。例えば1721年、ボストンで天然痘が流行した際には、全人口の半分以上に相当する1万600人が罹患して899人が死亡している。さらに1760年、南部のチャールストンで猛威を振るった天然痘は730人の生命を奪い、生き残った者は、「ほぼすべての仕事が停止している」と嘆いている。
 天然痘がどうして発生するかさえ当時の人々は知らなかったので予防策も後手に回った。まず焚火を燃やす。そうすれば天然痘を焼き払えると信じていたからである。次に煉瓦粉と消石灰を散布する。そうすれば瘴気を中和できると信じていたからである。そして、祈祷と懺悔である。天然痘は悪習に染まった街に対する神の罰だと考えられていたからである。
 予防法はなかったのだろうか。あるにはあった。種痘法である。しかし、天然痘の流行防止に大きく貢献したエドワード・ジェンナーが牛痘法を開発する前のことなので、人痘法が使われていた。人痘法は、牛痘法よりも危険性が高い。そのため種痘によって却って死亡する危険が高かった。例えば「種痘[人痘法]を受けた500人の中で死亡したのは4人のみであり、その他の事例では死亡率はさらに高い」と記録されている。
 このように危険な人痘法であったが、何も予防策を受けずに天然痘に罹患した場合の死亡率よりは低い。疫病の蔓延を防止するという点ではある程度、効果があったと考えられる。しかし、技術はその有効性が証明されてもすぐに受容されるとは限らない。種痘が忌まわしい妖術に他ならないという迷信が広まったせいで、禁止令が制定された場所さえある。また多くの聖職者は、そもそも天然痘は神が下した裁きであるので人間は何もせずに甘受すべきだと主張した。その一方で人痘法の発見を神の善意の現れと解釈すべきだと唱える聖職者も現れ、人痘法は都市部を中心に徐々に普及した。