【書評紹介】

現代の知的課題を活写する真正の哲学入門書

『図書新聞』2012年6月2日号掲載

吉川浩満氏(文筆業)

 本書は、本国ドイツで2007年に刊行されるや75万部以上を売上げ、『シュピーゲル』誌ベストセラーリストのノンフィクション部門でブック・オブ・ザ・イヤーに輝いたという哲学入門書の日本語訳である。

 売れない売れないと言われる哲学書にも、時たま大ベストセラーが生まれる。短期間のうちに数十万部単位を売り切る哲学書というのは、多くの場合、難しい話題を易しく解説してくれる入門的概説書なのである。たとえば、『ソフィーの世界』(NHK出版)と『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)は相当に異なる種類の哲学書だが、どちらも哲学の専門家にとっては既知の話題を一般読者層にも広く提供していくという性格をもっている。

 そうした概説書ももちろん大いに有用なのだが、本書はこれらのベストセラーとは趣を異にしている。たしかに哲学の入門書なのだが、なにも概説していないのである。なぜなら、概説すべき確固とした通説が存在しないような領域を対象としているからだ。これが本書の最大の特長であり美点である。

 どういうことか。本書が対象としているのは、先端科学の知見とそれが惹起する哲学的問題との接触面(インタフェース)なのである。先端的な科学研究においては次々と新たな知見が生み出されているが、それが未知と既知の境界上に存する事象であればこそ、生み出された知見がどのような含意をもつものであるか、必ずしも明確でない場合も多い。そのようなときに必要とされるのが哲学的思惟であり、実際に現場の科学者たちは通説の存在しない場所において日々「生きられた科学哲学」を実践している。それだけではない。科学がもたらす知見と技術がわれわれの生活や世界観に大きな影響を及ぼすことを考えれば、科学の素人にとってもまたそれは重要な意義をもつことになる。本書が良質な哲学入門書でありながらなにも概説していないとは、このような意味である。

 著者は諸学問分野を縦横無尽に駆け巡り、そこに熟慮を要する知的課題を見出していく。注目すべき現代の知的営為としてとくに大きくクローズアップされるのは、神経生物学(脳科学)と進化生物学である。自我や記憶といった認識論的問題においては脳科学がメイン・プレイヤーとなる。正義や幸福といった実践的問題をめぐっては、そこに進化生物学が加わることになるだろう。どの問題についてもあらかじめ決まった回答があるわけではないし、本書においても答えはあえて開かれたままにされているが、それは軽薄な雑学集に堕することなく、問題のハードコアへとまっすぐに歩み入ろうとする本書の基本姿勢によるものであろう。

 カント以来、哲学は自らを純粋に保つこと、諸個別科学との差異を強調することをひそかな楽しみとしてきた。しかし実際に哲学がはじまる場所は、同時代の知的営為との接触面(インタフェース)以外にはありえない。本書は、そのことを当のカントが唱えた究極問題ー「私はなにを知ることができるか?」「私はなにをなすべきか?」「私はなにを望んでよいのか?」ーに沿って見事に実演してみせている。考え抜かれた構成のもとで、現代の知的課題を臨場感あふれる筆致で活写する本書は、素人にも玄人にも薦められる真正の哲学入門書だ。

(※掲載許諾済)