【書評紹介】

*『週刊読書人』2025年2月7日号 掲載*

 

ビザンツ帝国危機の時代
ーー一人の歴史家の最後の訳業に敬服

仲田公輔

 「ローマはいつ滅亡したか」という問いに対する答えの一つとして、西ローマ最後の皇帝が廃位された476年は、未だに有力視されているように思える。しかし、コンスタンティノープル(イスタンブル)を首都とした東ローマ(ビザンツ)帝国が、幾多の危機を乗り越えながらも存続しただけでなく、首尾一貫して「ローマ人」としてのアイデンティティを持ち続けていたという理解も広まりつつある。
 ニキフォロス=ヴリエニオス『歴史(イストリア)』が扱う11世紀は、「中世のローマ人」たちがまさにそうした危機に直面していた時代である。東西の外敵と、国内の軍事貴族の出自であるビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位1081-1118)は、国政改革と夷を以て夷を制す対外政策、そして巧みな婚姻政策による他の有力家系の政権への取り組みによって帝国を立て直した。その中で結ばれたのが、本書の著者である軍事貴族ニキフォロス=ヴリエニオスと、夫の著書を材料の一つとして父アレクシオス帝の歴史書『アレクシアス』を書き上げた西洋前近代唯一の女性歴史家アンナ・コムネナの夫婦だった。
 訳者の相野洋三は、その『アレクシアス』(悠書館、2019)の訳業でも知られている。本書の草稿は、訳者が高校教員を退職するのを前後して開始した『アレクシアス』翻訳の関連資料として20年ほど前に訳出されたものだったという。「あとがき」によると、それが出版の日の目をみたのは、『アレクシアス』を書評した若手研究者による、『歴史』もまとまった形で発表してはどうかという提案だったらしい。長年眠っていた翻訳を、最新の研究状況を踏まえて改めて検討し、本として作り上げた訳者の仕事には敬服するほかない。
 残念なことに相野氏は2023年末に逝去され、本書は遺稿となってしまった。最期まで知的好奇心に満ちていたことは、訳者あとがきや、本書所収のビザンツ史研究者中谷功治による追悼文からも見て取れ、やり残した仕事も多々あったものと思われる。特に、そこで言及されている11世紀ビザンツ史についての重要史料ミハイル・プセロス『年代記』の訳業が途上に終わったのが惜しまれる。
『歴史』は未完の書物であり、決して扱いやすい史料ではない。しかし、冒頭に付されたビザンツ史研究者の井上浩一による平易な概説を読むことで、著者と作品の性質についての基本的な情報を得ることができるだろう。より本格的に読み込むためには、訳者自身が付した解題や、上述の本書の出版を示唆した若手研究者である村田光司が寄稿した最新の研究状況の紹介が役立つ。
 訳文は同じ出版社から出た『アレクシアス』と同じく、ギリシア語読みのルビを用いることで、原文の雰囲気を伝えながら翻訳することに成功している。本邦の読者に必ずしも親しまれているわけではない用語も多いが、詳細な訳註と、用語集を兼ねた索引が助けになる。
『歴史』が扱う範囲は、アレクシオス1世が即位する以前のわずか10年程度にすぎない。しかしその期間の中にも、アルメニアのマンツィケルトの戦いにおけるビザンツ軍の敗北(1071年)と、それに続く帝国の混乱という転機が描かれる。訳者も指摘しているように、『歴史』はこの戦いについての独自の情報をもたらす貴重な史料である。それを訳出するのみならず、同じ出来事を記したギリシア語の主要史料をすべて訳出して採録したのは、慧眼というほかない。通説ではこの出来事をきっかけに小アジアのトルコ化・イスラーム化が始まったとされるが、果たしてそれを同時代人はどのように見ていたのだろうか。東地中海世界のターニングポイントについて、様々な視点から眺めることを可能にしてくれる。
 本書の楽しみ方は様々である。『アレクシアス』や井上浩一『歴史学の慰め』(白水社、2020年)とともに読み、ビザンツ歴史叙述の世界に浸るもよし、帯にイラストを寄せている佐藤二葉の漫画『アンナ・コムネナ』(星海社、既刊5巻)の背景に思いを馳せるもよし、はたまた根津由喜夫『ビザンツ貴族と皇帝政権』(世界思想社、2012年)のような本格的研究書と並べれば、歴史学者はいかに史料を分析して叙述を行うのかという歴史学のいとなみを追体験することもできるだろう。

(なかだ・こうすけ=岡山大学准教授・ビザンツ帝国史)

※発行元・筆者のご了解を得て転載しています