【書評紹介】

『音楽現代』2013年12月号掲載

吉田 真氏

 ワーグナーの生誕二百年の今年、ドイツではバイロイトのみならず、大小のあらゆる歌劇場が競ってワーグナーの作品を上演している観がある。各地で特別な催しも目白押しである。ひるがえって日本の状況を見ると、一部の熱心な有志によるユニークな企画がいくつか目につくものの、記念の年にしては上演の質、量ともに少々寂しい。出版界においても、ドイツでは今年だけで優に数十点ものワーグナー関係の新刊(旧著の復刊も含め)が出ているが、日本では五指に満たない数なのを、いささか自責の念も込めて遺憾に思う。

 そんな中、思いがけずワーグナーの大型本が翻訳で出版されたのは嬉しい驚きだった。著者のバリー・ミリントンは日本のワーグナー・ファンにも周知の名前で、『ワーグナーの上演空間』(音楽之友社)と『ヴァーグナー事典』(平凡社)の監修者となっている英国の音楽評論家である。評論家とはいっても、著者のワーグナーに関する知識と情熱は凡百の研究者を遥かに凌ぎ、その博覧強記ぶりは今回の単著書に遺憾なく発揮されている。一見よくある豊富な図版を売り物にした伝記と思いきや、300ページを超える大著だけに文章による情報量もきわめて多い。ドイツの研究者による類書では、歴史的客観性を重んじて淡々と記述されたものが多いが、本書は確かな資料的裏付けを踏まえながらも著者の主観が入るのを厭わず、現代的視点からワーグナーの生涯と作品について問題点を掘り起こし持論を展開するので、その面白さは無類である。収録されている図版も同時代のものに限定されない。それゆえお馴染みの絵や写真に加えて珍しい物も少なくないが、特に作品の舞台写真は最新のものを伝記のページにためらうことなく挿入しているところに著者の姿勢が端的に伺われる。あたかも作品を無視したかのように見える数々の現代的な演出も、けっしてワーグナーの生涯と矛盾するものではないというわけだ。

 全三十章のうち第二十五章までがワーグナーの生涯に費やされるが、それ以降の五章がきわめて特徴的だ。ここからはバイロイトを中心とした現在までのワーグナー受容史が、これまた著者の幅広い視点と並々ならぬ熱意をもって綴られている。ワーグナーと映画をテーマにした章はこの著者ならではのマニアックな記述だが、それらを映像を駆使した現代の舞台演出との関わりに繋げることも忘れない。「お勧めディスコグラフィ」に取り上げられた推薦盤やコメントを見ても、英国人ならではの自国贔屓が垣間見られるのが微笑ましい。ワーグナー学者は必ずしもイコール・ワグネリアンではないが、本書は最も良い意味で桁外れのワグネリアンが書き上げた、まさに現代の「ワーグナーのすべて」となっている。本書は昨年出版されたばかりの原書からタイトなスケジュールで日本語版を仕上げたという。監訳者、翻訳者、そして出版社の努力に敬意を表したい。

(※掲載許諾済)