【書評紹介】

読み進めるたびに思い込みが覆される

『図書新聞』2013年12月7日号掲載

上川修史(ライター)

 「たかりの常習犯。救いがたい女たらしで、友人たちから金を巻き上げるだけで満足せず、彼らの妻にまで手を出す。人間関係に関しては完全に鼻持ちならなくて信用のおけない男。要するに、極悪非道の人間」。

 いささかショッキングな人物像で、いったいどこの悪人のことなのだと思ってしまう。実はこの一節は、今年生誕200年を迎えた作曲家リヒャルト・ワーグナーへの悪意あるいは敵意に満ちた「イメージ」として書かれたものだ。また、ワーグナーは革命犯でありながら奢侈を極めた生活を送っていたなど、不合理と矛盾に満ちた複雑な人格の持ち主でもあった。

 彼の音楽はニーチェ、バーナード・ショウ、トーマス・マンなどに愛され、音楽や文学はもとより、現代のハリウッド映画にまで影響を与えた。にもかかわらず、そこになにか香具師のような胡散臭さを感じてしまうのもこうしたイメージや複雑な人格が理由になるだろう。

 だが、このように昔から喧伝されていたワーグナーの「イメージ」は真実なのだろうか? この夏に悠書館より刊行されたバリー・ミリントンによる『ワーグナーーバイロイトの魔術師』は、この問いかけに最新の研究に基づいた解答を用意している。本書は新たなワーグナー像を見出すための画期的な成果である。冒頭に紹介した一節が偏った「イメージ」であることが分かるだろう。

 ワーグナーの伝記的記述や作品の解説はもちろん、女性関係、反ユダヤ主義、ルードヴィヒ二世との関係といったテーマが、充実したボリュームで解説されている。ここには最新の研究成果が取り入れられており、例えば、新たに公開されたワーグナーの蔵書目録に基づいた研究から、《ニーベルングの指輪》にルソーの影響がみられるといった事例など、新たな視点がいくつも取り上げられている。

 また、ワーグナー没後のワーグナー作品の受容状況や、ワーグナー家やバイロイト音楽祭のその後のなりゆき、あるいはナチスとの関係など、ワーグナーの受容史や上演史にいたるまでを一望できる。写真や絵がふんだんに使われているのも特筆すべき点だ。伝記的事実に基づくカラー写真や絵画をはじめ、ワーグナーオペラのカラー舞台写真が幾つも掲載されている。例えば初演当時の《リング》と今日上演される《リング》の演出の違いや、同じオペラが演出家によって異なる解釈を加えられ上演されていることを視覚的に理解できるだろう。

 本書のなかでもっとも大きな発見は、不倫の末に再婚したコジマとの三角関係についてだった。天才ピアニストで作曲家でもあったフランツ・リストの娘コジマは、ワーグナーの弟子でもあった指揮者のハンス・フォン・ビューローと結婚するが、コジマはワーグナーと不倫の関係となり、最終的にはビューローと離縁し、ワーグナーの妻となる。これが、ワーグナーが弟子の妻を奪ったという悪行の顛末とされている。

 だが、本書においてビューローの妻虐待や弱者いじめの性向、当初からビューロー自身がコジマとの結婚に自信を持てずにいたこと、あるいは、コジマの自虐的性癖や自殺未遂などが背景にあったことが明らかになる。また、ビューローの青年時代の初々しい肖像画がカラーで載せられているのも理解の助けとなるだろう。こう見ると、ワーグナーがコジマを奪ったという図式は見られなくなり、むしろビューローがそう望み、コジマが決然と決めたからこそと見て取ることができるのだ。その他にも幾つもの思い込みを覆される発見があった。例えば、ワーグナーは後年のナチズムにもつながる反ユダヤ主義者であるといわれているが、それは当時の広く普及していた時代の感情であり、ワーグナーのそれが際立っていたともいえないようだ。それどころか、ユダヤ人の同僚や友人も少なくなく、例えば最晩年の作品《パルジファル》の初演を指揮したのもユダヤ人指揮者だった。

 また、《トリスタンとイゾルデ》の作曲に重要な影響を及ぼしたマティルデ・ヴェーゼンドンクとの不倫にも新たな観点を見出すことができる。実はマティルデというのは本名ではない。最近の研究によれば、夫の亡くなった前妻の名前を付けられ、代わりとなるよう強いられていたというのだ。

 それから、「たかりの常習犯」ではあったが、別居中だった最初の妻であるミンナへ律儀に送金し、その死後も、自分とは血の繋がりがないミンナの娘を援助するなど、誠意ある一面を持っていたようだ。

 あわせて、これまであまり紹介されていなかったピンク色の絹製下着を愛好し、女装趣味を持っていたことに驚いたことも付け加えておきたい。

 このように読み進めるたびに思い込みを覆される事実を見つけていくのは実にスリリングな体験だった。本書は、熱心なワーグナーファンにとっての福音書であり、音楽愛好家にとってもワーグナーの実像を理解するための必読文献だ。まさに生誕200年にふさわしい業績と言えるだろう。

(※掲載許諾済)