【書評紹介】

 

三十年の大業の精髄

コンパクトな一冊に二大作の訳と注を収める

田桐正彦

 

  ヴィヨンの伝存作は、まず中篇詩『形見分けの歌』と長篇詩『遺言の歌』。後者は定型詩を多くとりこんで長篇に仕立てたもの。ほかに雑詩篇十数篇と、隠語の戯れ唄が少々。

 隠語作品の訳は少ないが、他は既訳が何種類もある。いずれもフランス文学畑の研究者による精緻な翻訳である。にもかかわらず、新訳の試みが繰り返されるのは、ひとつには、新しい校訂版の登場が旧訳を置き去りにするからである。しかしヴィヨンの場合、新訳を生み続ける根源は、作者作品の孕む謎にある。

 ヴィヨンの数奇な生涯は、隅から隅まで解明されているものと思い込んでいる方が多い。ところがじつは資料が乏しく、事実としてまかり通っている事柄の少なからぬ部分は、煎じつめて言えば神話にすぎない。極端な話、フランソワ・ヴィヨンとは物語詩の主人公、架空の存在であって、作者は彼の「父以上の存在」として作中にちらほらする、ギヨーム・ヴィヨンである、という説まである。

 ジュネットばりのナラトロジー(物語の構造分析)の専門家の説のようだが、この大胆な説をひっさげてヴィヨン研究に一石を投じたのは、西欧中世史の大家、堀越孝一である。

 堀越によるヴィヨン二大作の研究・翻訳は『ヴィヨン遺言詩注釈』Ⅰ~Ⅳとして過去に小沢書店から刊行された。が、この出版は荒波にもまれた。2000年夏、第三巻刊行の頃に版元が傾く。当時池袋の大型書店で、小沢書店セールが催された。私事になるが、そこで買いそびれていた第三巻を見つけたときの感慨は忘れがたい。気持ちは浮き立ち、第四巻が幻と化すことに思い至って、沈んだ。

 この気持ちは版元の方がつよかったようだ。二年後、第四館『遺言の歌 下』が刊行にこぎつけたのである。奥付に、こうある。

 発行者 株式会社 小沢書店新社準備室

 発売 株式会社 冬至書房

 関係者がいかにシリーズの完結を願い、続きの刊行を優先させたか、察するに余りある。

 ただ、当初予定されていた補巻、『ヴィヨン遺言詩注釈総索引・書目一覧』は日の目を見ずに終わった。小沢書店は褒められこそすれ、責められる筋合いはない。だが、補巻を望むのは研究室・図書館だけではないだろう。

 ここに、朗報がある。いまわたしが手にしているのは『ヴィヨン遺言詩集』訳注 堀越孝一。コンパクトな一冊に二大作の訳と注を収める。過去にこういう内容の書物はない。

 悠書館は、さまざまな事情で水没している観のある堀越のヴィヨンを、未完の補巻も含め、装いも新たに順次再刊するのだという。
 本書は、シリーズ刊行に先立ち、この大業のエッセンスをまず一冊にまとめ、一般書として世に送り出すものなのである。

 巨大艦隊のごとき四巻の内容を、軽快なヨットのごとき一冊に積み込めるものではない。訳文は多少の改訳を交えて完全収録されているが、注は必要最低限に加えられている。その匙加減が絶妙である。

 つまり、ヴィヨンという詩人の代表作を読んでみたい、と手を伸ばす読者なら、適度な注を含むこの一冊で、十分に堪能できる。

 他方、ヴィヨンあるいは中世末期のパリや北方ヨーロッパに関心を持つ向きは、堀越訳ヴィヨンの決定版的な本書を机上に置きつつ、今後刊行される『注釈』シリーズを補巻までそろえて縦横に検索したくなるにちがいない。

 堀越訳は最新の、あるいはもっとも信頼できる校訂版を選んで底本としたものではない。写本を照合し、自ら確定した本文をベースに据えている。校訂方針には賛否あるだろうが、堀越の仕事が訳注の域を越えて、校訂作業まで遡っていること自体は評価に値する。

 もうひとつ目立つのが、当時の発音の徹底した再現である。堀越は古語の発音を、カタカナで擬似的に表記することに情熱を傾ける。

 ここまでこだわりを見せるのなら、翻訳も「正確無比」な訳に執着しそうなものである。ところが、堀越の態度はそういうこわばったものではない。たとえば、次のような詩句。  
  だれが生きているか、

  喪の蝶のわが上に

  はばたくとき(286頁)

 ひらひらと舞うクロアゲハの類、いや、きらきらとした小さな虹の幻さえ見えてきそうだ。だが、原文に「蝶」に当たることばはない。

 この例では、原詩の持つイメージの作用を、等価物としてまったくべつのイメージを創出することで訳中に移し替えようとする、大胆不敵な「翻訳」が試みられているのである。 
 本書は学究肌を併せ持つ芸術家肌の人物の、三十年に及ぶ仕事の精髄である。詩の翻訳から詩が降臨する。そういう稀な光景が本書では随所に立ち現われる。ほら、そこにも。(女子美術大学教授)

*掲載許可済