刊行案内人文(民話)>シリーズ『新しい日本の語り』

【書評紹介】

「新しい語り」の姿を具体的に伝える貴重な記録

『図書新聞』2013年12月14日号掲載

永池健二(国文学)

 今日、日本各地のどんな所へ出かけていっても、土地に根ざした生き生きとした「語り」に出会うことは、絶えてなくなった。土地に根ざした昔話や伝説を語る、囲炉裏端や行事の夜のような語りの場がなくなると共に、生きた語りを伝える技術も、それを担う語り手たちも、姿を消していったのである。ドイツの批評家ヴァルター・ベンヤミンは、「物語作者」の中で、何かを「物語る」という行為を、熟練した職人の手仕事になぞらえ、「もろもろの経験を交換する能力のこと」だと位置付けている。近代における「物語」の衰退は、そのまま、私たちの生活の中で経験を普遍化し、共有化する能力の減退と深く結びついているのである。

 本書は、そうした現代日本の語りの現状に深い危惧を抱き、それぞれの生活の場で「新しい日本の語り」を模索して実践を積み重ねてきた人びとの、「新しい語り」の姿を具体的に伝える貴重な記録である。全五巻の各巻が、それぞれ全国の各地に拠点を置いて、土地の方言などを活用して新しい語りを模索する努力を続ける五組六人の語り手たち(矢部敦子、立石憲利、「おかつ新三郎」〔荒石かつえ・望月新三郎〕、藤田浩子、藤原ツヂ子)の語りの実践を具体的に伝える昔話、伝説、世間話などの多彩な例話を中心に構成されている。

 興味深いのは、これら、出身地も、経歴も、年齢や職業も、活動の拠点も異にする語り手たちが、そろって、幼少時に、身近な年寄りから、豊かな生きた語りを聞いたという体験を持っているという事実であろう。本書の「語り手」たちは、生きた豊かな語りが、その語りの記憶こそが、新たな語りを生み出す何よりの原動力であることを示す、生きた証人なのである。

 本書を通読していて、昔話のような何かまとまった話を「カタル」という行為と、それを朗読するという行為が、まったく異なった二つの言語行為だということを改めて、痛感した。同じように「聞き手」の存在を前提としたよく似た表現行為であるように見えながら、両者を決定的に隔てているのは、おそらく、当の「聞き手」の占める位置に関わっていよう。朗読において「聞き手」は、必ずしも具体的な顔を持っている必要のない稀薄な存在であるのに対して、「語り」は、常に「聞き手」に働きかけて、「聞き手」を語りの場に巻き込み、語りを共に担い、共有するよう促す。優れた語りは、そうした語り手と聞き手の相互による緊張の中にもたらされる創造的な表現行為なのであろう。

 この本の編者たちや語り手たちが目指す新しい「語り手」とは、「自分の言葉で語る語り手」であると述べられているが、その「自分の言葉」とは、けっして、語り手独りの体験や立場からだけ見出されたものでなく、こうした語りの場における、語り手と聞き手の相互的な緊張関係の中でこそ、見出され、作り上げられていったものであろう。聴衆と共有する土地独自のなまりや言い回し、あるいは、意味を超えた音声表現としての擬音語や擬態語表現を効果的に活用するといった表現の工夫も、そうした聞き手との相互作用の中で、磨きあげられていったものに違いない。

 こうした聞き手を巻き込んだ生きた語りの力が、幼い子どもたちの言語能力や言語感覚の成長にどんな力を及ぼすのか、ということも、きわめて興味深いテーマである。

 さて、読者は、この五組の個性ある語りのどれをお好みだろうか。個人的な好みを言わせてもらえば、評者は、昔話の研究者としてたくさんの生きた語りに触れた経験を生かした立石憲利氏の語りや、独特な感性で擬音語擬態語を効果的に使い分ける藤田浩子氏の語りに、惹かれた。

 本書巻末にはそれぞれの語り手たちの生の語りを収録したDVDが付けられている。子どもたちと一緒にそれを聴き比べてみるのも楽しい試みであろう。

(※掲載許諾済)