コラム「アメリカ史の窓」

第20回 貧富の格差

 十八世紀後半にヴァージニアを旅したあるフランス人は、「私が海を渡ってから初めて貧しい人々を見た」と述べている。大農園の中に混じって「貧しさを物語る物憂い表情してぼろを着た白人が住んでいる小屋」がたくさんあった。南部の農夫の三分の一は借地農に転落していた。フランス人が見たのはそうした人びとである。
 イギリス本国の労働力需要の高まりでアメリカに渡航する者の数が減った。その結果、渡航費と引き換えに自分の身柄を売る年季奉公人の数も減った。大農園主は労働の担い手を奴隷に移すことで乗り切った。その一方で安価な労働力を入手できない小農園主は零落する者が増えた。これはヴァージニアの地方の観察だが、都市部でも富の独占は進行していた。
 近年の研究によれば、一六九〇年、上位の一割の富裕層が富の四五パーセントを所有していた一方で、三割を構成する中間層は四〇パーセント、残りの過半数を構成する貧困層は十五パーセントを所有していた。四〇年後、一割の富裕層は五五パーセント、三割の中間層は三五パーセント、そして、残りの貧困層は十パーセントの富を分け合っていた。独立戦争直前になると、格差はさらに広がり、一割の富裕層は六五パーセント、三割の中間層は三〇パーセント、そして、残りの貧困層は五パーセントの富しか所有していなかった。こうした数字を見ると富裕層にますます富が集中している傾向がわかる。
 なぜそのようなことが起きたのか。富裕層は同じ階層の内部で結婚を繰り返して富の分散を防いていた。しかも限嗣相続制、つまり、一人の子供に大部分の財産を継承させる制度によって遺産の分割も阻止された。
 その一方で、移民の流入と物価の上昇によって、都市部の貧困層の数は著しく増加した。一七〇〇年から一七六〇年にかけて主要都市の人口は実に三・四倍になった。例えばボストンでは救貧に要する費用が約三〇年で十二・五倍になった。またフィラデルフィアでは、貧困を理由に免税の対象になる者の割合が、一七二〇年に二・五パーセントであったのが、一七七〇年には十一パーセントに増加している。